山下ふみこオフィシャルブログ

2019年08月

2019.08.29

香川県・豊島の産廃不法投棄in高松研修NO2

森永ヒ素ミルク中毒事件も担当した中坊公平弁護士に弁護を依頼。

中坊弁護士は、『あんたらは何をするんや』と住民に問いかけた。他人任せにするのではなく、自分たちの問題として、何ができるのか。覚悟が問われた。

県はなかなか責任を認めようとしなかった。行政や政治はどうやって責任を取るのか。責任を取る者はいない。だから最後手段として、住民は司法の場に訴えるしかない。しかし、その多くは住民は勝訴したためしはない。そこには莫大な費用が双方に伴う。
結局のところ、行政の費用は県民国民の負担である。
因みに豊島住民の調停費用は1億6千万円かかったという)
しかし、行政は間違えることはないという、『行政の無謬(むびゅう)性』の実態。
つまり責任を負わされるのは県民国民でしかない。

県と闘うのに、豊島住民がしたことは、世論を味方につけることだった。銀座で豊島の廃棄物を展示したり、住民が10班に分かれて10地区以上の集会所等で説明会を開き、その数は100箇所以上にもなった。回を重ねる毎に、住民は勉強を重ね、自分の言葉で豊島の問題を話せるまでになって行った。
さらには県議会に住民の声を直接伝えるため、県議選に石井さんが立候補して、奇跡の当選も果たしていく。


 豊島の住民運動は、『お金ほしさでしょ』と非難されたこともあった。県は住民の運動が怖かった。『あいつらは、違法行為はしないものの、何をしでかすかわからん』と。住民運動への世論の支持の広がりは県にプレッシャーになった。
2000年、調停が成立し、知事が住民の前で謝罪しました
廃棄物は、隣の直島に運ばれ、無害化処理されることになった。

当時の住民運動の歴史を記録したパネル=豊島のこころ資料館


何故、」住民運動が成功したのか。

島民一人一人が当事者として成長し、自分事として取り組んだ結果が成功した。高齢者が多く、『孫のために、一矢報いたい』との思いも強かった。孫の代に『じいちゃん、ばあちゃんたちは、いったい何をしていたんや』と非難されたくなかった。

ただ、平時は必ずしも住民が一つにまとまっていたわけではなかった。廃棄物という外敵が島を攻めてきたから、『みんなで闘おう』となっただけ。現実には、運動の過程で、島民からの誹謗(ひぼう)中傷があり、島民同士の分裂もあり、人間関係に悩み、運動から去っていった人もいる。

 石井さんは、「住民運動をしたい」と言う他県の人たちの相談も受けてきたが、私はいつも『運動は苦しいし、勝てる見込みもないからやめたほうがいい』と言います。私に言われたくらいで、『じゃあ、やめよう』となるくらいの覚悟なら、はじめからしないほうがいいですから」という。
⇩住民運動で使用したのぼり旗(豊島のこころ資料館)

住民運動で使用したのぼり旗=豊島のこころ資料館

豊島の事件の教訓
できるはずがないと誰しも思うことに対して、我を捨てて必死になっている姿に、多くの人が声援を送ってくれた。そのことが、不可能を可能に変えてしまった。

●豊島事件は、日本が循環型社会を目指すきっかけとなり、自動車リサイクル法が成立するなど環境政策の面では教訓は生かされた

●「人々よ、当事者たれ』ということ。行政はシステムでしかない。ミスをしても責任を持たない。一人一人が結果に責任を持ち、立ち上がるしかないということ。

 石井さんは、「便益を受けるものと、リスクを負うものが分離してはいけない。分離すればするほど、加害者は当事者意識を失い、構造的な暴力となって被害者に襲いかかる。豊島に捨てられた廃棄物の中で最も多かったのは自動車の破砕くず。それをつくるのは、自動車企業。そして、自動車に乗っていた人たちは、豊島の住民の苦しみを知らない。
無関心こそ、最大の暴力になりうる。福島原発の事故も同じ構造で、私たち一人一人が原発を黙認した結果だと思う。」

2000年6月3日、25年にわたって争ってきた県と、事実上の合意が成立する。
2017年3月、処理対象廃棄物、汚染土壌91万トン余、総事業費800億円。ゴミは撤去されたが、さらには、地下水浄化作業はまだ途上にある。史上最大の原状回復事業はまだ終わっていない


中防弁護士が口にする「喧嘩の終わり方」
「どんなに勝っても、最後の最後で相手を向こうへ押し倒してはならない。前へ引き倒すのだ。負けても感謝できる終わり方でなければならない。そうしないと、どんな内容の喧嘩であろうとも怨念が残ってしまう」

最後に:
豊島の産廃現場に立って、当事者の石井さんの話を聞いて、公権力と闘うには、なまじの覚悟では闘えない。また、闘うべき相手は自分自身でもある。闘争に25年間、当初の参加した住民549人のうち、既に死亡した方が334人。そしてその処理が今も続いている。現場に立って、初めてその壮絶な住民運動の歴史が理解出来ると思った。しかし、時代とともにその闘い方も変わらざる得ない時代が来ているのかもしれない。

2019.08.28

香川県・豊島の産廃不法投棄in高松研修NO1

8月22日から2泊3日で第11回・自治体議員政策情報センター・虹とみどりの年に1回開催される研修に県内の議員と一緒に香川県高松へ向かう。昨年の全国大会は沼津で、静岡県内の議員や仲間に助けられ無事に終わり、それから1年後の大会であり、私にとっては感慨深いものがある。
今回、特に印象に残ったのは、瀬戸内海に浮かぶ豊島(てしま)産業廃棄物不法投棄事件の現場を訪れたことである。
高松港から船便30分、美しいこの島に、産廃の業者と県に対して壮絶な住民運動が20年以上にわたって展開された。
1970年代後半から80年代にかけ、悪質な業者と無策な行政によって引き起こされた産廃不法投棄事件
1600人ほど(当時)の島民が立ち上がり、様々な住民運動を展開した。最終的に香川県に責任を認めさせ、91万トンにも及ぶ廃棄物の撤去を勝ち取った。2003年から撤去が始まり、2019年に770億円かけて撤去は完了したが、まだ完全な処理には至っていない。

⇩写真は現在の産廃撤去が終わった現場。当時はあの山の高さ(15m)まで産廃のゴミが積み上げられていたという)

1978年、住民は業者に産廃処理の許可を与えることに反対であった。経営者が、金もうけのためなら何をしでかすかわからない人間だと再三陳情したにも関わらず、香川県は業者に許可をだした。

当時の知事は『住民の反対は事業者いじめであり、住民エゴである。豊島の海は青く空気はきれいだが、住民の心は灰色だ』と言い放った。
当時の香川県は考えられないほど公権力の横暴としか言いようがない。
業者は『ミミズの養殖』のため、食品汚泥など無害物を持ち込むという約束であった。しかし実際には、車の破砕くずや廃油など、大量に不法投棄し、野焼きをした。集落には、煙や異臭が漂い、咳が止まらなくなる住民もいたという。
しかし、業者の不法投棄を香川県は黙認した。

住民は、県に指導するよう再三求めたが、無視され続けた。住民が担当課に行って、庁舎の窓から見えるあの煙が見えないのかと迫ると、横を向いて、『見えません』と言い切った。さらに県は、業者が持ち込んでいるのは廃棄物ではなく、『金属回収の原材料』と詭弁(きべん)を言い出す始末。

⇩下の写真は豊島の産廃ツアーに参加した議員(前列右から3人目が、当事者でありガイドをしてくださった石井さん)

なぜ県は実態を把握しながら、黙認したのか?許可を出した行政が最初の違法な不法投棄を見て見ぬ振りをしたことが、豊島住民に過酷な闘争に陥らせ、20年以上にわたって公害調停と住民闘争が続けられた。

県の職員は『経営者の暴力を恐れた』という。強いものに巻かれて怖くて指導ができなかったというのだろうか。無責任、事なかれ主義という行政の体質が、豊島住民はもちろんだが、県民に大きな負担を強いることに繋がった。しかし、いったい誰がその責任を負ったというのだろうか。

1990年に隣県の兵庫県警の強制捜査で不法投棄は止まった。当事者の香川県は許可を出した以上、不法投棄に見て見ぬ振りを通した。そんなことが許せるのだろうか。

大量の産廃ゴミが残り、住民は県、事業者、国などに撤去を求め、1993年に公害調停を申請。一方で、県は責任を否定し、『安全宣言』を出し、ゴミを放置しようとした。
勝ち目のない闘いだったが、『自分たちの代で美しかったこの豊島をゴミの山のまま子ども達の世代に押し付けるわけにはいかない』「子どもたちに豊かな環境を残してやりたい。第2、第3の豊島事件をおこしてはいけない」ただそれだけのこと。人間本来の、ごく当たり前のささやかな思いである。

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