山下ふみこオフィシャルブログ

市議会

2024.01.28

市政報告会・車座集会3日目

1/27(土)今日は4か所目の市政報告会を市民文化センター練習室で開催。

既に1/20から始まり4回目の報告会だが、質問者からの意見は其々違っている。今回の報告会はなるべく来てくださった方々の意見に耳を傾けるという事を中心に行ってきている。

能登半島地震における沼津市の対応、ごみ集積所の問題、期末手当の値上げ、クオカード3000円の全戸配布、上下水道の値上げ等々、やはり日々の暮らしの危機感からか、私や江本さんの事件からも、否応なく政治への関心は高まっている。

今の余裕のない世相に、個人攻撃をする前にやるべきことが山ほどあるではないかと怒りの声も頂く。

市民の関心事でもある議会の様子や市長の政治姿勢への疑問にもあるあるの裏も表も知るうる範囲でお話をしている。

今日も参加者から率直な意見や感想を伺い、こうやって細かく市内を廻っていく重要性を再認識している。感謝

2023.11.11

市が市議を訴える@沼津 その6 元々だれの土地?

「元々の土地は沼津市」と言われているようなので改めて説明をする。

沼津市歴史民俗資料館の資料によると黒瀬橋はもともと木造橋であった。
昭和33年(1958年)狩野川台風で流出し、昭和37年に鉄筋コンクリート橋として建設された。
平成5年(1993年)自転車・歩行者専用の橋が架けられた。

この2度にわたる橋の建設によって120坪からの土地を植松(父)は沼津市に売却することになった。

2回目の時は64坪の土地を売却するにわたり、同じ64坪の土地を代替え地として払下げる約束(確約書)をした。植松の土地になるはずだった問題の土地2筆が登記がされていなかった。

当時は2筆(1556-1,1556-2)の土地が2回の橋の建設により20筆にも刻まれてしまっている。
木橋は、たびたびの洪水により流出し、そのたびに復旧されてきたという。
そして、昭和33年の狩野川台風で木橋の流出によって鉄筋コンクリート橋が建設された。
当時の住民にとって待望の橋だった事が想像できる。

まだ木橋の頃は家の前は道路であった。
それが昭和37年に今の黒瀬橋が出来たことによって、橋が高架橋になり植松の家はその高架橋の下になってしまった。

S26植松の公図
山下敷地公図S色分け+元敷地 (1)
戦前の町並み

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