山下ふみこオフィシャルブログ

2025.01.13

第5回目 土地問題裁判

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第1回目の裁判は2024年2/14、そして今回は第5回目が1/15(水)行われます。

事の発端は2023年8月の高橋議員に来た匿名の写真と手紙です。それが現在の土地問題に発展し既に1年以上が経過します。
この裁判にはいるには議会の議決が必要です。弁護士費用も確保されなければなりません。私の不当利得返還等請求の提訴に関する議案審議の時、江本市議の質疑において、「議会の品位を汚した」として市議会が下した懲罰に対して、江本議員は県の審決を仰ぎました。

その結果は、「議案質疑において、議会の品位を欠くようなものではなく、懲罰の違法性は認められない」と沼津市議会の懲罰処分は取り消されました。

しかし、現在、懲罰検証特別委員会は、沼津市議会が行った江本議員への懲罰が県の「審決」によって取り消されたことから、江本議員に行った懲罰について、検証するために続いています。

第2回目の特別委員会は1/22(水)13:30から開かれます。誰でも傍聴はできます。

NO5ニュースレターお知らせ

2025.01.11

山神社の例祭

1/11(土)日吉にある山神社の例祭が行われた。
古くから山の神様として親しまれている。山神社は、いつ創立されたのか年月日は分からないけれど、今から190年前の天保9年(
1838年)に再建されたとある。

江戸時代で、天保の改革が進んでいたころです。

さらに昭和3年(1928年)ちょうど100年前に再建され、また昭和52年(1977年)に再建されたとある。この時に近くの老廃化した三峯神社に祀られていた津島牛頭天王、瘡守稲荷の二神をこの山神社の新拝殿に遷座。合祀することになったという。

津島牛頭天王古来から厚い信仰を集め、疫病や災いを鎮める霊力があるとされ、厄除けや縁結びの神様としてご利益があると伝えられている。
瘡守稲荷:瘡守かさもり)とは、疱瘡(天然痘)から人々を守るという。疱瘡は伝染病として恐れられ伝染病からも地域を守ると伝えられている。

 日吉にとって日枝神社は氏神様であり、山の神様は鎮守の神様です。山の神は農耕の神様で、山仕事をする人々によって信仰され、山を守り、自然を保護し、人々に平和な生活をもたらす役割を担っていると考えられている。

昔はこの一帯も田んぼや畑でしたから農耕の神様は住民にとって大事であり、山神社の例祭を地元日吉では今も欠かさず続けている。

2025.01.05

地域の歴史シリーズ5「大岡」in 明治史料館

明治史料館で「地域の歴史シリーズ5・大岡」展が2/24まで開催。

私の生まれた大岡について興味があり、私のルーツは何処にあるんだろうかという思いもずっとある中、今回の「大岡展」はとても興味深いものがある。
既に明治史料館では地域の歴史シリーズ2「かなおか」、シリーズ3「うきしま」、シリーズ4「おおひら」と令和3年から毎年開催。学芸員が地域を歩いて写真を撮ったり、地域の方の協力を得て資料収集、また倉庫に保存してある何万点もある資料から選び出すなど、膨大な資料から探し出していく。これらの作業は学芸員の仕事らしいが、展示開催は大変な作業だと想像する。

大岡の由来:明治7年(1874)に大岡村が誕生し2024年で150周年、昭和19年(1944)に大岡村が合併して沼津市になって80周年になる。明治22年(1899)の町村制施行よりもいち早く複数の村で合併して「大岡村」となり、先進的な気風のある地区のようです。その歴史は古代の「大岡荘」に由来し、鎌倉時代には源頼朝との縁もあったようです。

←この大岡村の鳥瞰図は大岡小学校の校長室に今も飾られているそうです。大岡村だけの鳥瞰全図はとても珍しいそうです。
大正14年に「秀俊」と言う方が書いたようですが、この方が誰なのか分からないそうです。
かつて大岡は岡一色や岡宮も入っていたのですが、門池の地名はないですね。

↓日吉廃寺の発掘。かつて御殿場線が旧東海道であり、大正6年丹那トンネル開設に伴う東海道熱海線の敷設により発掘されたもの。この調査により奈良時代前期の寺院であるとされ、古代初頭、スルガ国の中心地が沼津市域にあったことを示す重要な遺跡だそうです。

↑大仏様の頭部にあるぶつぶつは螺髪(らほつ)と言い、その螺髪が見つかり、この大きさから言うととても大きな大仏様のようです。このように日吉廃寺はとても大きな寺のようだが、この寺は日吉で発掘された町名であって、この寺の名前は分かっていない。この日吉廃寺の横に山神社が祀られ、毎年1月に日吉町内では、山神社の祭祀を執り行う。
螺髪は、お釈迦様が人間を超えた存在であることを示す一つの特徴。

↓は昭和15年ごろの東京麻糸沼津工場。(今の西友)かつてはお蚕さんを飼っていて、ここで絹糸も生産していたのだと思う。お蚕のエサは桑の葉だが、確か桑の木もあったと記憶している。それにしても膨大な敷地の工場であったのかと思うと当時の賑わいを想像し灌漑深いものがある。

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