山下ふみこオフィシャルブログ

2015.08.30

駿河國誕生と高尾山古墳by赤塚次郎

8/30市民文化センターにおいて、高尾山古墳の学習会第2弾、「NPO法人古代邇波の里・文化遺産ネットワーク理事長 赤塚次郎氏」の古墳を活用したまちづくりを市民と行うためにはどうすべきか、既に愛知県犬山市にある青塚古墳を歴史憩いのスポットにした仕掛け人でもある赤塚先生のわくわくドキドキしたステキなお話を伺うことができた。

私たちの祖先、ルーツでもある高尾山古墳の王とはどんな人だったのか。
スルガの国の王の墓と言われている東日本最大最古級の高尾山古墳の謎は、考古学的見地からは築造年代等は解明されたとはいえ、愛鷹山麓に広がる古代スルガの地に、新しいリーダーの登場には、いったいどんなストーリーが秘められているのか。
その王が何を考え、何をこの地で成し得たのか、
赤塚先生の本当にわくわくするスルガ國の物語の始まりであった。

美しい愛鷹の森と駿河湾の海に挟まれた空間に、無限の可能性と未来への希望を夢見たリーダーの登場に、当時の地域社会においては革新的なものであっただろうという。

浮島沼と言う低地・沼の環境に住む民と標高100mの山麓(足高尾上遺跡群)に住む民、そして高尾山古墳が築造された木瀬川・狩野川低地部に住む人々と海の民。弥生後期社会から継続する海辺・低地部に集住する浜の民と標高100mに住む山の民、この二つの大きな部族集団が、何らかの理由で「駿河」の地に集まり、高尾山の王を支えていた
まさに彼らは、高尾山の王に憧れて集まってきたかもしれない。この地に育つ優れた素材がここに集まってくる。海を越え、山を越えて異国のものが往来する場面が出来上がったのだと。多くの技術集団が集まり、広域ネットワークを展開していったのではないか。

同時に大規模な古墳造営と言うイベントが民や富の動員を可能にしていった。やがて、その領域が「スルガ」と呼ばれることになっていく。

スルガという國の歴史は、まさに高尾山古墳の築造を契機として、その機運の中から創出され、伊豆半島から愛鷹山麓を抱え込むこの場面から出発したといえるだろう。だからこそ、この王墓を なくすことは、スルガの国のはじまりをなくすことにもつながる。

最後に、赤塚先生は文化遺産学からの視点として、
この古墳の存続を願うには、古墳の評価だけでは、その文化遺産を護り、継承する道筋は見えてこないという。どちらが良いかといった二項対立的な視点からは何も見えてこないと。
史跡や文化財からの視点ではなく、「文化遺産」として、国や県・市等の枠組みだけのものではない活用の可能性を探っていく。それには地域に残る物語や歴史の舞台を認識し、私たち市民が具体的なその場の歴史を造っていくことが先決だという。

沼津市民はその認識をさらに深め、 地域社会の文化遺産が目に見えるまちづくりをしてほしいと提言された。文化遺産を継承していくまちづくりは、住民にとって、不便なことがたくさんある。しかし、それがひいては、どのまちにもない沼津ならではの地域再生へ繋がっていくと。
高尾山古墳はその可能性を十分秘めているからこそ、全国の多くの方々から関心を持って下さっているのだと改めて感じている。

高尾山古墳が今まで地域の熊野神社と穂見神社に守られ続け、その存在さえ忘れ去られてきたわけだが、神社の移転と共に、今再び、その存在が蘇ったわけである。
赤塚先生のいう「平成の世に再び蘇る。その意味するところはやはり、環境変動の兆しがみられる今日的な地域再生への警鐘かもしれない」と。

二度とありえないその歴史的な遭遇を、このまちの再生のために、覚悟を持って受け止めていかなければならないと思う次第です。

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