山下ふみこオフィシャルブログ

まちづくり

2019.10.31

フジ虎ノ門こどもセンターin御殿場市

「発達障害の支援を考える」議員連盟でフジ虎ノ門こどもセンターの見学と私は独自に御殿場市の運営する発達相談センターにも伺う。双方のシステム体制が各部署間で連携、連動した支援体制が構築され、子どもを取り巻く医療・福祉・保育・教育等の民間と行政が連携し総合的に子どもをケアする全国でも類をみない施設です。
特に御殿場周辺は小児科専門医が2人しかなくて子どもにとっての医療環境は充分ではなかったという。
まずは民間のフジ虎ノ門整形外科病院が、ある意味採算度外視をした「こどもセンター」を開設したことに驚きと尊敬とスピード感にただただ敬服をする。施設のほとんどが補助金を当てにしない計画であったからこそ、スピード感をもって実行できたのだろう。それに呼応して御殿場市も「発達相談センター」をこどもセンター内に併設し一貫した体制で臨んでいる。

虎ノ門18

市の機関では福祉部門と教育部門の連携がなされ、発達支援システム推進のための検討組織が設置されたことは大きな成果である。また、こどもセンターとの隣接によって医師の診断があおげるので、医療部門と臨床心理士との連携がとりやすい。其々の施設(診療エリア・放課後等デイサービス・児童発達支援・学童保育・市の発達相談センター)が独立しながらも、多職間同士が連携し合うことで豊富な人材確保が維持できるので、スタッフの皆さんも安定した環境の中で子どもたちの療育支援を行うことができている。
横田医師センター長は言う。
「小児科医・看護師・薬剤師・セラピスト・心理士・栄養士・社会福祉士等の医療スタッフと御殿場市の福祉スタッフと小中の教師たちが、うち揃って子どもたちのために協働していく新しい小児医療の樹立に邁進したい」と。
まさしく地域と共に子どもとその家族を支援していく体制が官民一環となって構築されてやっていこうというそのスタートがこの御殿場で始まった。
御殿場市長は「子育て日本一」を目指すというその大きな壮大な希望に着実に近づいている気がする。

2018.12.26

権力と地域破壊

12月25日の東京新聞に掲載された記事は、ちょうど高架事業のために地域が2分化されている状況によく似ている。同じまちの住民でありながら、ずっとその地域の住民を苦しめ続けてきている。そして、県も市も議会も推進派が圧倒的に市民に支持されている現実があり、いよいよ強制収容に踏み込もうとしている。
既成事実が淡々と積み上げら、着々と進もうとしているかのように見えるが、その裏側には人口減少と高齢化によりさらに大きな財政的な課題と想定以上の社会変化と温暖化による異常気象が急速に迫ってきている。

昭和の半ばから計画されていた三重県芦浜原発計画は、その予定地が反対派と賛成派で2分化され対立は泥沼化。三重県知事だった北川正恭さんは、賛成、反対派との国の狭間で悩んだ末、2000年に白紙表明。

当時の北川県知事は、原発建設に同意を求められる立場であった。しかし、現地で目にしたのは、昔から支え合って暮らしてきたはずの漁村で、家族でも原発への賛否が別れると口も利かなくなるような殺伐とした状況だった。

彼は「このまま原発を進めれば、地域破壊がさらに進み、住民を苦しめ続ける。権力がそこまでしていいのか」。悩んだ末に「住民の同意と協力が得られている状態とは言い難い」と県議会で表明し、計画は撤回された。

この記事をきっかけに現在強制収容が取り沙汰されている原地域の住民の思いに心を寄せてみる。(↓下の記事をクリック)

2018.09.26

竜王駅の南北自由通路by安藤忠雄

前々から行きたいと思っていた建築家・安藤忠雄氏による甲斐市の竜王駅にある南北自由通路と橋上駅を友人と見学(9/26)に行く。
JR中央線によって市街地の南北が分断され、北口への出入り口がなく不便だった竜王駅。平成の大合併(H16)によって、橋上駅舎と南北自由通路はH20・3月に全面供用開始された。利便性が向上したのは言うまでもないが、世界的な建築家・安藤さんが設計監理を手がけ、芸術的な建造物としても甲斐市の中核的な存在となっている。
1日の乗降客数5000人 総工費25.6億円 

竜王駅の南口、北口も巨大な屋根と巨木が印象的である。ロータリーの中心に大空に向かってそびえたっているシンボルツリー。

↓南口のケヤキ                   ↓北口のクスノキ

駅舎には市の行政情報や観光案内情報が設置。また、この広い南北の通路の利用方法は面白い空間利用ができそう。
広場では巨大な屋根によって守られているので朝市も開催されている。

1時間無料の駐車場や駐輪場も整備されている。
また、高齢者や障がい者の方々にも利用しやすいバリアフリーの整備がなされている。

この駅舎がこのまちの顔として、市民が誇りを持てる駅になっているのではないだろうか。
また、安藤氏もこのまちの顔として地域コミュニティの一つの中心となることを期待している。

2017.05.16

生涯学習施策は稲城市

稲城市10

5/15「主婦が幸せに暮らせる街」全国2位の東京都稲城市にある複合施設「iプラザ」をなないろの風の仲間と県外の市議有志で視察。

「稲城市生涯学習推進計画・Inagiあいプラン」に基づき開設された「いなぎICカレッジ」の生涯学習施策を学ぶ。

稲城市「第三次生涯学習推進計画」(H24~H33)は、憲法26条における「教育を受ける権利」を大前提に、H18に改正された教育基本法3条「生涯学習の理念」に基づき、生涯にわたって様々な形で「学習する」ことができる社会を実現することを基本姿勢としている。

このICカレッジは市民ボランティアの理事20人が企画・運営を担い、受講料で運営をしている全国でも珍しい受益者負担のシステムを可能にしている市民大学である。

稲城市6

講座は市民ボランティア講師による「一般教養講座」と、近隣大学の先生による「プロフェッサー講座」があり、毎年1500人の受講者が参加している。


このカレッジの事務局は教育委員会・生涯学習課の職員1人と非常勤の職員1人と臨時職員1人で運営されている。
職員を増やさず、お金もかけない受益者負担のシステムが総務省に評価されている。

稲城市3

この生涯学習が成功している秘訣:
●教育委員会が事務局なので、講座の会場確保、広報、対外的大学等の窓口となる。
●ボランティアの理事たちが
積極的に取り組んでいけるように、事務局と双方向の関係を構築
●講師謝礼や事務局経費に金をかけず、受益者負担(受講料)で運営を実現
●単位制市民大学として運営(市民修士(12単位)や市民博士(30単位)の学位記を授与)

生涯学習を終了した人たちや学位を取得した人たちは、その後どういう形でかかわっていくのだろうか?
その一つにはグループが出来て自主的な活動しているところもあるというが、毎年1500人もの人たちが受講し、終了しているわけで、その先の活動をどう市民活動等につなげて行けるのだろうか。
向学心に燃えている受講者たちを、地域で活躍できる仕組みを作らない手はない。

稲城市8

2017.02.05

井田の塩づくり&菜の花まつり

2/5は井田の菜の花まつり。
すごーく有名なこの写真の風景だが、祭りにはなかなか行けずにいた。
今回は私の大好きな華ちゃんが、井田塩を使ってパンを作りたいというので彼女の思いを叶えてあげたいというか、その塩パンを1日も早く食べてみたいという下心もあって、念願の井田へ仲間と行く。

井田の集落に入るには、この桜並木の道を通るのだが、すでに河津桜は五分咲きになっていた。

写真は井田の奥田さん。今回の訪問は井田塩を買うこともそうなのだが、塩づくりを民間会社と一緒にやることになったということを聞いて、その真相をちゃんと本人に確かめたかった。

改めて、井田の塩づくりのことに触れておきたいと思う。
井田は
40世帯で人口80人ぐらいの小さな集落。沼津から車で1時間余り。海岸線を走り続けて山中に入り、県道17号線からわき道に降りた処にある。
今日はすでに道の両脇には河津桜が五分咲きである。

親戚でもある奥田さんが「村おこし」をしようと思って始めた井田の塩づくり。

その手法は1500年前にさかのぼるという。安康天皇が詠まれた歌の中に、「かく山の麓の塩のくすりにて井田ともいふぞ内裏から名に」とあるように、かつてはこの地の塩が皇室に献上され、病を癒したといわれている。

当時、ここも人口流出と高齢化が進み、民宿も昔とは違い、過疎化は進む一方であった。
そこで、何とかこの村のために、安定的な生活の糧になる仕事がないかと文献等を調べ、1500年前の塩づくりを発見した。
そこで、村の人たちに呼びかけ賛同してくれたものの、いざ始めようとすると過酷な労働ということもあったのだろうか、結局、奥田さん一人で掘っ立て小屋を建て釜
1台で始めることになった。 
確かに、その文献による塩づくりは、大変な重労働で手間暇がかかる。釜は鉄板が0.5ミリの薄さで焚き上げなければ目指す塩にはならず、その薄さゆえに釜は1.5ヵ月しかもたず、交換しなければならない。早朝から海水500リットルを海からくみ上げ、薪で13時間以上焚き上げる工程は聞くだけでも過酷そうです。
確かに時間もかかり、効率も悪く、釜交換にも経費がかさみ、
さらにその作業に取り掛かかれば、火加減調整もあってほとんどかかりっきりになる。特に夏の暑い時期は締め切っている作業場は過酷以外の何物でもなかったと思う
こうして出来上がった塩は東京の一流料理屋から視察があり注文が来るまでになっている。
売り込みから販売まですべて一手にやり、その合間には民宿や農業、ミカンもやるわけで、本当に頑張ってきたのだと思うと、いつも新米の時期にはお裾分けしてもらっている我が家は感謝が足りなかったと反省する。
(下の写真は新しく建てた塩づくり作業場)

ここまで奥田さんを駆り立てたものは何だったんだろうか。
彼は何も言わないけど、何とかこの井田の良さをみんなに知ってもらいたい、ずっとこの村に住み続けるには、「俺が頑張らなくて誰が頑張るんだ」という想いがあるのだと思う。彼は昔気質だけれど、進取の気性に富み、常にチャレンジャーだったから、きっと村では特異な存在だったかもしれない。でも彼は常に井田のこと、戸田のこと、そして次の世代のことを考え続けている。
そんな彼が、とうとう今年から民間会社と連携していくことになったという。
体力的にも大変になってきたのがきっかけだったのかもしれないが、民宿もやめてこれからは塩づくりに専念していける環境になり、さらに「いい塩づくり」を目指すという。
今日の祭りでも、奥田さん一家の若い人たちが頑張っていたし、こうして確実にその塩づくりが若い人たちに繋がっていっている様子が見てとれた。

私は常々言っているのだが、神々しい不思議な力があるところです。この井田にある唯一の妙田寺。ここにお釈迦様の舎利が祀られているのはご存じだろうか。さらに運慶の作品とも言い伝えられている仏像もある。
この話はまたの続きとしよう。是非、井田に行ったときは奥田さんと寺の和尚様を訪ねるといいでしょう。

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