山下ふみこオフィシャルブログ
高尾山古墳
2018.07.10
高尾山古墳と和島誠一賞

先日、市長に表敬訪問をして写真にある「和島誠一賞表彰状」の報告がされたと伺う。
この賞は2000年~行われ、毎年そうそうたる顔ぶれの方々が受賞されている大変由緒ある賞だということを関係者からも伺う。
2015年6月議会に高尾山古墳の調査費が計上され、取り壊しの予算は議会で可決された。にも拘らず、議会の可決直後に、当時の栗原市長は、予算執行の一時停止を表明した。
当初、関係者の誰もがこの古墳はなくなる運命だと思っていたし、その方向で進んでいた。
しかし、市民運動の盛り上がりと同時に水面下で本当に多くの著名な方が動いていた。その一人に歴史学者の磯田道史さんも、彼の著作の中にもこの高尾山古墳の経緯は書かれている。
この表彰状を見せて頂いた時には、当時のことを思い出して、またこうしてその時のことを忘れずにいて下さる方がいることに本当に胸に迫るものがあった。地道に誠実にやってきたことが報われた瞬間であった。
https://yamashita.fm/blog/2015/06/6378/
2018.06.05
高尾山古墳を守る会の受賞
本年度 第19回和島誠一賞を受賞!!
「高尾山古墳を守る会」は団体部門で受賞者として選ばれました。
和島誠一賞は、2000年5月に設けられた賞です。文化財保存運動の先駆けをなし、また大きな足跡を残した考古学者・故和島誠一氏を記念した文化財保存の賞です。
和島氏は考古学に科学的精神を啓発され、文化財保護思想の普及を広く提起し、また積極的に実践を行ったことが高く評価されています。
文化財保存全国協議会では、このたび和島氏が遺された文化財保護思想の遺産に深く学びながら、21世紀に文化財保護、活用および普及がさらに飛躍的に発展するという期待を込めて、「和島誠一賞」を設け、遺跡保存に顕著な力を果たしている個人と団体を表彰しています。(画像クリック→拡大)
https://yamashita.fm/blog/2015/06/6378/
2015年6月議会に補正予算で道路事業費として5100万円が古墳埋蔵文化財発掘調査の費用として計上されていた。
行政側の当初の説明は単なる調査だということで、これは道路を作る為の予算だということだったが、、実はそうではなかった。調査は記録保存の「全面発掘」を名目に古墳を全て削って行く調査だった。削ってしまってから、もし何かが出てきてもそれは後の祭り。上から順番に削っていくので、道路の平面まで壊してしまうことが分かったのだが、その時点ではすでに古墳はなくなる方向で動いていた。
6月議会の補正予算の採決では、予算に賛成21:反対6で、この古墳は調査名目で消えてなくなる運命にあったのだが・・・
写真は補正予算案の採決の様子。
賛成のための議員21人は起立している。賛成多数で古墳調査費は可決したのだが、そのあとで、栗原市長は調査費の一時停止と有識者会議の開催を表明した。
それから事態は大きく方向転換をしていくことになったのだが、その過程において一筋縄ではいかなかった。
市民団体の粘り強い保存運動と歴史学者の磯田道史さんや全国の保存団体が動き、そして国交省が動き、保存の方向に大きく変化をしていくことになっていった。その経緯は後に磯田さんも本に書かれている。
2015.11.01
高尾山穂見神社例祭 in 日枝神社
11/1(日)高尾山穂見神社例祭が平町1丁目、2丁目の自治会合同で行われた。
平町にある穂見神社は大正14年6月に、山梨県の南アルプス市にある高尾山の穂見神社から御神体を分祀されたものであるという。御祭神は宇迦御魂命(うがたまのみこと)である。
最初の場所(元平町郵便局)は区画整理事業のために移転を余儀なくされ、現在の日枝神社の一角に移転されたもので、今年でちょうど90周年ということのようです。
神事の後に、直会(なおらい)をする。
直会とは、祭りの終了後に、神前に供えた御饌御酒(みけみき)を神職をはじめ参列者の方々で戴くことをいう。




昔、平町は問屋街だったという。狩野川から直接、荷降ろしできたので、川を上り下りして、荷を運んだと言います。平町界隈は、造り酒屋、お米、豆や、油や等の問屋が、川沿いに立ち並んでいたようです。もちろん今ではその面影は全くありませんが、祖父から聞いたことがあります。
当時の問屋の旦那衆が、商売繁盛や五穀豊穣を願って、南アルプス市の穂見神社へ行って御神体を分けてもらったということのようです。
この界隈の事を知っている方がいたら、ご連絡をお待ちしています。
分霊とは:本社の祭神を他所で祀る際、その神の神霊を
そして毎年この時期に2つの自治会が合同で高尾山穂見神社例祭を行っている。
2015.09.05
高尾山古墳と道路両立の協議会
今やっと古墳保存と道路の両立に向けて話し合いが始まった。その第1回目の協議会が9/3。
この協議会自体に法的拘束力はないが、最終的な市長判断に影響を及ぼすことは間違いがない。
この協議会の行方を見守るために、多くの市民、考古学者、県内外の方が傍聴に来る。会場に入りきれない方々は別室でモニターでの参加で、100人余からの方がこの協議会の行方を見守る。(画像はクリック)
6/30、6月議会の最終日に、道路のために古墳を削り取りながら調査をしてくと文化財予算が、他の一般会計予算と一緒になって可決された。しかし、市長は予算執行を留保し、今回の学識経験者の協議会で検討することとした。

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その現状を回避するために、平成19年に「文化財保護法」ができた。
この法律の目的は
2015.08.30
駿河國誕生と高尾山古墳by赤塚次郎
8/30市民文化センターにおいて、高尾山古墳の学習会第2弾、「NPO法人古代邇波の里・文化遺産ネットワーク理事長 赤塚次郎氏」の古墳を活用したまちづくりを市民と行うためにはどうすべきか、既に愛知県犬山市にある青塚古墳を歴史憩いのスポットにした仕掛け人でもある赤塚先生のわくわくドキドキしたステキなお話を伺うことができた。
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私たちの祖先、ルーツでもある高尾山古墳の王とはどんな人だったのか。
スルガの国の王の墓と言われている東日本最大最古級の高尾山古墳の謎は、考古学的見地からは築造年代等は解明されたとはいえ、愛鷹山麓に広がる古代スルガの地に、新しいリーダーの登場には、いったいどんなストーリーが秘められているのか。
その王が何を考え、何をこの地で成し得たのか、
赤塚先生の本当にわくわくするスルガ國の物語の始まりであった。
美しい愛鷹の森と駿河湾の海に挟まれた空間に、無限の可能性と未来への希望を夢見たリーダーの登場に、当時の地域社会においては革新的なものであっただろうという。
浮島沼と言う低地・沼の環境に住む民と標高100mの山麓(足高尾上遺跡群)に住む民、そして高尾山古墳が築造された木瀬川・狩野川低地部に住む人々と海の民。弥生後期社会から継続する海辺・低地部に集住する浜の民と標高100mに住む山の民、この二つの大きな部族集団が、何らかの理由で「駿河」の地に集まり、高尾山の王を支えていた。
まさに彼らは、高尾山の王に憧れて集まってきたかもしれない。この地に育つ優れた素材がここに集まってくる。海を越え、山を越えて異国のものが往来する場面が出来上がったのだと。多くの技術集団が集まり、広域ネットワークを展開していったのではないか。
同時に大規模な古墳造営と言うイベントが民や富の動員を可能にしていった。やがて、その領域が「スルガ」と呼ばれることになっていく。
スルガという國の歴史は、まさに高尾山古墳の築造を契機として、その機運の中から創出され、伊豆半島から愛鷹山麓を抱え込むこの場面から出発したといえるだろう。だからこそ、この王墓を なくすことは、スルガの国のはじまりをなくすことにもつながる。

最後に、赤塚先生は文化遺産学からの視点として、
この古墳の存続を願うには、古墳の評価だけでは、その文化遺産を護り、継承する道筋は見えてこないという。どちらが良いかといった二項対立的な視点からは何も見えてこないと。
史跡や文化財からの視点ではなく、「文化遺産」として、国や県・市等の枠組みだけのものではない活用の可能性を探っていく。それには地域に残る物語や歴史の舞台を認識し、私たち市民が具体的なその場の歴史を造っていくことが先決だという。
沼津市民はその認識をさらに深め、 地域社会の文化遺産が目に見えるまちづくりをしてほしいと提言された。文化遺産を継承していくまちづくりは、住民にとって、不便なことがたくさんある。しかし、それがひいては、どのまちにもない沼津ならではの地域再生へ繋がっていくと。
高尾山古墳はその可能性を十分秘めているからこそ、全国の多くの方々から関心を持って下さっているのだと改めて感じている。
高尾山古墳が今まで地域の熊野神社と穂見神社に守られ続け、その存在さえ忘れ去られてきたわけだが、神社の移転と共に、今再び、その存在が蘇ったわけである。
赤塚先生のいう「平成の世に再び蘇る。その意味するところはやはり、環境変動の兆しがみられる今日的な地域再生への警鐘かもしれない」と。
二度とありえないその歴史的な遭遇を、このまちの再生のために、覚悟を持って受け止めていかなければならないと思う次第です。