山下ふみこオフィシャルブログ

2023.11.12

第167回香貫山影奉仕の活動

167回目の香貫山影奉仕の仲間たち。私たち以外はほぼ毎日この山にきて清掃活動もやってくれている。
だからみんな自分の庭のように植物のことも、登山道のことも、樹木のことも何でもちゃんとわかっている。

私のブログを楽しみにしている仲間の岩ちゃんは今日は来ませんでしたが大丈夫?

いつも山の様子を気にかけている古屋さんは「思案六法」と一言私に話しかける。
「思案六法?」(あれこれと考えをめぐらすこと)この目の前の木を切るべきか切らざるべきかとちょっと立ち止まって考えているという。この木を切ったら地盤がどうなるのか、考えながらの作業だという。こうやって山の状態を常に考えながら関わってくれている仲間に感謝。

香貫山9
香貫山8
香貫山5
香貫山2
香貫山6

ベビーカーや車いすのサインやトイレのサインボードをつけました。

このウマは、バイクや自転車がレースをするために、深夜、山に入ってサーキットをし、騒音等もあり、危険なので進入禁止にするためにウマの間隔を狭めていた。
ある日、家族で来たお子さんが車椅子だったために、この柵を超えることができず、「頂上からの風景を見せてあげられない・・・」と言ったことがとても気になっていた。この山には介護施設の車や障害者施設の車も香陵台駐車場に止めて、お散歩をしている光景を見る。

その事で農林農地課の担当に相談をしたところ、ウマの位置をちょうど車椅子が通れる間隔に広げてくれた。もし、また危ないサーキット等が始まるようなら柵は占めるという条件で。農林農地課の担当者には結構頭をひねってもらい感謝!
今の処、その心配もなく来ています。サイン付けてよかった!

香貫山11

2023.11.11

市が市議を訴える@沼津 その6 元々だれの土地?

「元々の土地は沼津市」と言われているようなので改めて説明をする。

沼津市歴史民俗資料館の資料によると黒瀬橋はもともと木造橋であった。
昭和33年(1958年)狩野川台風で流出し、昭和37年に鉄筋コンクリート橋として建設された。
平成5年(1993年)自転車・歩行者専用の橋が架けられた。

この2度にわたる橋の建設によって120坪からの土地を植松(父)は沼津市に売却することになった。

2回目の時は64坪の土地を売却するにわたり、同じ64坪の土地を代替え地として払下げる約束(確約書)をした。植松の土地になるはずだった問題の土地2筆が登記がされていなかった。

当時は2筆(1556-1,1556-2)の土地が2回の橋の建設により20筆にも刻まれてしまっている。
木橋は、たびたびの洪水により流出し、そのたびに復旧されてきたという。
そして、昭和33年の狩野川台風で木橋の流出によって鉄筋コンクリート橋が建設された。
当時の住民にとって待望の橋だった事が想像できる。

まだ木橋の頃は家の前は道路であった。
それが昭和37年に今の黒瀬橋が出来たことによって、橋が高架橋になり植松の家はその高架橋の下になってしまった。

S26植松の公図
山下敷地公図S色分け+元敷地 (1)
戦前の町並み

2023.11.11

市が市議を訴える@沼津 その5 元々だれの土地?

市議が市民への説明に、もともとは沼津市の土地を山下が「私のもの」と言っている。これは山下が悪質で自分のものではないそもそもの沼津市の土地を私の土地と言っているという。
何故、基本的なことが曲解されてしまったのかと調べてみると、その一つに静岡新聞の記事に同じようなことが書かれている。

当時、その記事に抗議をしようと思ったが、当時のマスメディアの報道は私に対する酷い報道がされていたのでそのままにしていた。しかし、今でも市民はそういう理解をされる方もいるのでこの件については訂正をしたい。
まずは、「私のもの」というそもそもの土地は誰のものか?

8/15静岡新聞□元々の沼津市の土地 → 元々は植松家の土地です!

静岡新聞の土地2
静岡新聞の土地1

8/15静岡新聞□元々の沼津市の土地 → 元々は植松家の土地です!

静岡新聞の土地1
山下敷地公図S色分け+元敷地 (1)

戦災前の町並みが資料として残されている。 当時、植松は「沼津倶楽部」といわれ乗馬クラブをしていた。

戦前の町並み
馬や写真0001

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